

日本占領下のオランダ 人映画監督
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J.C.モル
果樹栽培の仕事のかたわら、モルは趣味の写真と映像制作に情熱を注いでいた。「自然が織りなす、目には映ることのない美しい世界を撮影したい」その一心で顕微鏡映画撮影の方法を独自に研究し編み出していった。そして、その膨大な知識から、写真撮影の方法や機材の扱い方について、多くの書籍も残した。


技術を開発することに長けていたモル。それだけでなく、技術を人々と共有することにも熱心だった。
この教育映画では、モルは自ら出演し、フィルム撮影の手順を説明している。
結晶化のプロセスを捉えた映像集。
顕微鏡でしか見ることのできなかった世界を映像におさめ、人々を驚かせた。
モルはユーモアのセンスも持ち合わせていた。
この映像では、バナナを食べる少年を逆再生。
1930年代、ムルティ・フィルム社はオランダで唯一カラーでフィルム撮影ができる会社だった。
その技術力は、海外諸国からも高い評価を得ていく。
オランダの小さな街・ハーレムで制作されたモルの映画は、花の都パリでも上映され、多くの人々の目を楽しませた。

新しい国、新しい挑戦
オランダ領東インドの首都バタビア(現在のジャカルタ)に渡ったモルは、制作会社ムルティフィルムバタビア社を設立する。
これは、1941年王女の誕生日を祝う祝日のニュース映像。
その頃、オランダではドイツ軍による侵攻が始まっていった。モルはオランダ領東インドに留まることを余儀なくされる。
世界を取り巻く状況は日々悪化していった。1942年3月、オランダ領東インドは日本軍に占領される。
モルは日本軍が設置した強制収容所に他のオランダ人と共に収容された。

日本人と働く

プロパガンダ映画
この映画には、日本人画家の小野佐世男が登場。両手を使って蚊を描く。
蚊が媒介となるマラリア予防を呼びかける目的で作られた映画である。
マラリアは当時から命取りになる病気と恐れられていた。
制作陣は、小野佐世男の独特な絵の描き方と顕微鏡映像を組み合わせたユニークな演出方法でこの映画を完成させた。
現地の日本酒工場を紹介する映画も作られた。
1945年8月、日本の降伏と共にインドネシアの占領も終わった。
モルは、インドネシアに残り、オランダ政府が率いた制作会社で働き始める。
映画制作の現場に再び監督として復帰したのである。
モルの監督下で、「成長する世界」というニュース映画シリーズが作られた。
この週刊ニュースシリーズは、インドネシアの独立を求める声が強まる中でオランダが作ったプロパガンダ戦略の一環と言われている。
1947年からインドネシアが独立する1949年までの間に130本以上制作されたという。
日本人映画制作者たちは、モルから学んだ撮影技術を携さえて、日本に帰国した。
そして、日本で科学映画の制作に取り掛かる。これは1948年に作られた「生きているパン」という映画。パンができるまでの酵母の動きをミクロの視点でとらえた。
制作したのは、石本統吉と小林米作。
二人ともインドネシアで映画作りをしていた人物である。