

日本占領下のオランダ 人映画監督
現代では、スマートフォンのカメラにタイムラプスやスローモーションなど様々な機能が搭載され、誰もがエフェクトを凝らした映像を作ることができる。20世紀の初め、まだカメラが貴重品だったころ、すでにその手法を駆使したオランダ人映画監督がいた。その類まれな映像制作の才能により、世界大戦のさなか、海を渡って活躍。そしてその才能ゆえに、第二次世界大戦では敵国であった日本にも協力していたという。
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J.C.モル
彼の名前は、ヤン・コーネリス・モル。人の目では見ることのできないミクロの世界を映像におさめたいと、撮影技術の開発に情熱を注いだ。そして、その情熱は彼を世界各国への旅に駆り立てた。
果樹栽培の仕事のかたわら、モルは趣味の写真と映像制作に情熱を注いでいた。「自然が織りなす、目には映ることのない美しい世界を撮影したい」その一心で顕微鏡映画撮影の方法を独自に研究し編み出していった。そして、その膨大な知識から、写真撮影の方法や機材の扱い方について、多くの書籍も残した。


1927年、モルはハーレムという街に制作会社ムルティ・フィルム社を立ち上げた。スタジオには最新鋭の機材を導入。自然科学から医療分野へと活躍の場を広げ、大学との共同研究にも取り掛かるなど事業を拡大。
技術を開発することに長けていたモル。それだけでなく、技術を人々と共有することにも熱心だった。
この教育映画では、モルは自ら出演し、フィルム撮影の手順を説明している。
結晶化のプロセスを捉えた映像集。
顕微鏡でしか見ることのできなかった世界を映像におさめ、人々を驚かせた。
モルはユーモアのセンスも持ち合わせていた。
この映像では、バナナを食べる少年を逆再生。
1930年代、ムルティ・フィルム社はオランダで唯一カラーでフィルム撮影ができる会社だった。
その技術力は、海外諸国からも高い評価を得ていく。
オランダの小さな街・ハーレムで制作されたモルの映画は、花の都パリでも上映され、多くの人々の目を楽しませた。

新しい国、新しい挑戦
1939年、モルは新たなプロジェクトに挑む。オランダの海運会社・ロッテルダムロイド社からの依頼で、オランダ領東インド(現在のインドネシア)をカラーフィルムで撮影しようというのだ。モルは妻と共に新天地へ向かった。
オランダ領東インドの首都バタビア(現在のジャカルタ)に渡ったモルは、制作会社ムルティフィルムバタビア社を設立する。
これは、1941年王女の誕生日を祝う祝日のニュース映像。
その頃、オランダではドイツ軍による侵攻が始まっていった。モルはオランダ領東インドに留まることを余儀なくされる。
世界を取り巻く状況は日々悪化していった。1942年3月、オランダ領東インドは日本軍に占領される。
モルは日本軍が設置した強制収容所に他のオランダ人と共に収容された。

日本人と働く
モルの制作会社は日本軍に接収され、そこに国営の映画制作会社、日本映画社が作られた。
制作部門を率いていたプロデューサーの石本統吉はモルに制作への協力を呼び掛けた。日本から派遣された多数の映画制作者たちは、モルの知識と技術に感銘を受けたという。

プロパガンダ映画
日本映画社はインドネシアの人々に向けたプロパガンダ映画・ニュースを作っていた。戦況を知らせるニュース以外にも、日本語学習や新しい生活習慣を伝える教育映画が作られた。
この映画には、日本人画家の小野佐世男が登場。両手を使って蚊を描く。
蚊が媒介となるマラリア予防を呼びかける目的で作られた映画である。
マラリアは当時から命取りになる病気と恐れられていた。
制作陣は、小野佐世男の独特な絵の描き方と顕微鏡映像を組み合わせたユニークな演出方法でこの映画を完成させた。
現地の日本酒工場を紹介する映画も作られた。
1945年8月、日本の降伏と共にインドネシアの占領も終わった。
モルは、インドネシアに残り、オランダ政府が率いた制作会社で働き始める。
映画制作の現場に再び監督として復帰したのである。
モルの監督下で、「成長する世界」というニュース映画シリーズが作られた。
この週刊ニュースシリーズは、インドネシアの独立を求める声が強まる中でオランダが作ったプロパガンダ戦略の一環と言われている。
1947年からインドネシアが独立する1949年までの間に130本以上制作されたという。
日本人映画制作者たちは、モルから学んだ撮影技術を携さえて、日本に帰国した。
そして、日本で科学映画の制作に取り掛かる。これは1948年に作られた「生きているパン」という映画。パンができるまでの酵母の動きをミクロの視点でとらえた。
制作したのは、石本統吉と小林米作。
二人ともインドネシアで映画作りをしていた人物である。
1949年、モルはオランダへの帰国を果たす。晩年も映像制作の情熱は持ち続けるも現場からは徐々に離れていき、帰国から5年後の1954年、63才で生涯を終えた。彼が作り上げた撮影技術は今も科学映画史に刻まれ、功績は世界で讃えられている。
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